あいちトリエンナーレの所感

祖父の納骨の為に東京滞在中でしたが、台風19号が迫っている10月12日、運よく名古屋行きの夜行バスが見つかったので、以前より興味があった、あいちトリエンナーレにいく事を決意しました。

当然、アナウンスで12日は中止になる事は知っていましたが、東京の台風の状況次第では台風が過ぎた後だと間にあわない可能性もありこの日に移動しました。

例の不自由展に関する情報だけがフォーカスされ、政治プロパガンダの展示はけしからん的な事ばかりで、全体としてきちんと見て判断したいと思ったからです。

実際は抽選を2回受けてどちらも落選したので見る事が出来なかったのですが、現地の訪れていた人や関係者の方とお話したのも踏まえての感想となります。

表現の不自由展・その後の作品は直接見れなかったので、書くか迷ったのですが、「時代の肖像 絶滅危惧種 idiot JAPONICA円墳-」という星条旗の上に特攻隊が寄せ書きした日の丸を燃やした立体の作品を一つ取りあげます。

特攻隊をバカにしているとも捉えられるし、命をかけて戦った先人の勇敢な心が戦後GHQの政策ではあったが追米に走った腑抜けた日本人を揶揄するともとれる。

アートというのは個人によって自由に解釈されるべきだし、人によっては許し難い内容のものもある。
でも、自分の常識や許容の範疇に収まるものばかりであればそこで思いがけない出会いや成長する機会が失われてしまう。

個人的に、特攻隊の志願兵であった祖父の想いは、未来の日本人である今を生きている人の為でありその犠牲となった方々の想いをこのような形で展示するのは許容できないのだが、解釈によって、反日作品とも反米作品とも捉えられる。

個人の想いのみ優先すると見えない側面があるという意味で成るべく多角的に物事を見る機会として展示再開は良かったと思ってます。結果、社会を巻き込んで意見や解釈が飛び交っており、それまでそういった歴史に興味がなかった人達にも届いているという。

一度は展示を拒否された不自由な作品を抽選方式や個人の解釈の余地がない同意書などによって、見る人に不自由さを強制するという、極めてアイロニーであり、そこをひっくるめての表現の不自由展・その後と言ったところでしょうかね。無理やり解釈すれば。

あと、現地を回って感じたことを記述します。

まずは、アートラボあいちの2052年宇宙の旅という最終的に一つのパビリオンを作るというプロジェクトに関する発表があったんだけど、途中齟齬が生まれ分離したが最終的に展示され、分離の過程も細かな資料で確認出来るようになっており価値観の違いが即分断に繋がるのではないという事を学びました。

また、プレイグラウンドなどの参加型の企画は、地域の事、トリエンナーレの内容に関する議論の場や各地をネットでつなげて画面を通じてコミュニケーション出来る導線があり作家と見る人の垣根がない参加者自体の積極的な行動を促すものも多く、ただ鑑賞するだけでなく当事者意識を持たせることでよりアートを実感できる仕組みが良かった。

全体を見れば、ITを駆使した情報を伝達する為のツールや導線、人と人が対面して議論する事、マスコミ等を通じて社会に問題を提起した企画展など'情'の時代というテーマを本当に体現していた展覧会であったと思います。

その上で、特に委員会の方々に言いたいのは、何故、ここまで批判が出て一時は開催中止に追い込まれたのかを考えて欲しい。
各関係者や作家のステートメントを見るとテロによる弾圧だったり、政府からの検閲によって不当に潰されたというような意見のみ散見してましたが、そもそも、今の韓国と日本の政治的な摩擦や嫌韓感情が強くなっている背景の中、あの展示をする事で強い反発がある事自体予測出来るし、一方的な思想に基づく内容が税金を使って行われるという事を一般人はどう思うでしょうか?

ごく一部の関係者の中だけで完結していて、そこに一般人や専門家の意見が無視された結果だと解釈してます。

作品自体どんなに反日だろうがヘイトだろうが個人的には展示されても問題ないと思います。
ただし、自由であるという事は相応な責任も持つべきです。

述べ2日間で実際見られなかった展示も多かったですが、可能な限り見て回った感想です。
余りにも不自由展に関する内容だけで、展覧会自体の内容が発信されているのを見られなかったので全体の内容が伝わるよう自分なりの感想を記載しました。

僕自身勉強不足な為、歴史の事実やらアート業界に対する知識不足から誤った認識をしているかも知れません。そこは今後も色んな展示を見たり歴史資料を参照しながら理解していければと思っています。